昭和40年11月13日 夜のご理解
椛目で信心の稽古をさせていただく人たちが、13日という日を大事にする。13日という日は、特に神の願いの成就する日と、神の悲願達成の為の働きを頂けれる日として、13日という日を大事にいたします。神様の願いが叶うと、言うことは、どういうようなことかと言うと、私は、私ども氏子の一人一人が、神様のお働きかけ下さるのに、都合の良い、心の状態と言うか、信心の状態というものにならせていただくこと以外にはない。それは、どこまでも私ども氏子が、助かる以外にはない。私どもが真実の助かりのおかげを頂くということが、実を言うたら神の願いであり、真実に助かっていく氏子でなかならければ、神様の大きな願い顕現の為の働きということになってこない。ですから、この神様の、例えばお互いが信心させていただきましてから、まあ誰でも、自分のこと自分一家のことを、まあ一心に願わせてもらう。だんだん、信心が分からせていただくようになりますと、その自分以外の、例えば今日の、伊万里の方たちのご参拝。中には、竹内先生、皆さんから、他の信心のない方達のことまで、お初穂をなさって、その方達の、難儀について、お願をなさっておられる。というのが沢山ございますように、自分以外の者の事にまで、その祈りがおよんでいくということ。祈りがおよんでいくだけではなくてそれが、成就していくということ。様な、おかげを頂かなければ・・。そういうようなことがです、神様の願いであろうと。私一人が助かった為に、ここで、言わば千人も万人の者が、助かっている。そういう意味での助かりが、お互いできなければならん。ね、というようにその、私ただ今、ご神前に出らせていただきましてから、その伊万里の方の、その今のお届けの中に、ある事業を失敗して、どの方角にこれから進んで行ったらよかろうかという、お伺いの事が書いてあった。その事を私神様にお願いさせていただきよりましたら、大きなほうを取れと。私意味は分かりませんけれども、その自分、個人の小さい目先のことじゃなくて、大きなほうのことを、とって道を進んでいけと。しかもその事が成就する事のために、★元気な心で一心にすがれということを頂いた。元気な心で一心にすがるということはどういうようなことだろうかと、私は思うたら、あの、皆さんには意味が分かられないかもしれませんですね、ここであの、卵のお知らせは元気な心。卵を食べると元気付くでしょう。ですからその、卵でも食べて元気な心で、打ち向かえ、ということなんです。そしたらですね、神様からその、卵のかたきがあるっち。卵のかたきが。ね、せっかく卵を食べて元気づいとった。ところがです、元気付いて神様に打ち向かいよったところが、神様の、がっかりなさるような、お嫌いになさるようなことを、またやってしもうた。これはね、その卵、卵を食べる、と元気付くけれども、その卵にも増してです、その元気を、その元気な心を、水の泡にしてしまうような、ものが、お互いの心の中にあるということだとこう思う。そこのところを、私は本気での改まると言うことになると思うだけれど、ね、例えて言うならば、その元気な心とは、好きな、一番自分が好きなようなでも断つような心とこう仰る。ね、ここでは、もう久富先生なんかはもう、とにかくお酒が好きな。このお酒を断たれると言うことは大変な、元気な心がいるだろうと思うですね。ところがその、断ちますと言いながら、こそこそとやっぱり失敗していきよるわけなんです。人は知らんかと思うとるけれども、神様だけは見てござる。大抵なやはり元気な心がいるということ。それ卵を食べてから、信心のみ教えを頂いてから、いやこれはどうでも、( ? )と思いなさるとじゃろうけれども、さあ、いよいよ目の前に酒が出てくると、その元気な心よりもっと増した心が心の中にあって、それを邪魔するということ。ね、例えて言うなら久保山先生なんかそれと反対。甘い物が、大変、もう好きと言うよりも、もう大好きだ。好きで好きでもう大好きでというとこなんだ。ただ好きという、程度のもんじゃないて。だからこれでも、いよいよの時には断たせていただく、と言うような修行をなさる事があるんですけれども、大変な至難な事であろうとこう思うんですね。神様が皮肉にその、甘い物を目に前にちらつかせなさる。( ? )ほんとにもうその、やはり、やはりもう手がガタガタ震うぐらいあるだろうと思うんです。それを摘むまいと、為には。ですからその基のものを、やはり除かなければいけない、何がそう、ほんなら、先生方を、久保山先生が甘い物、久富先生が辛いもんだからいつも例に出るんですけれども、おんなじことなんです、皆そうなんです。ね、この事だけはもう神様にお供えしてと、自分その、自分のここ、神様にこう言う大きな願いをしておるのだから、こう言うご無理なお願いをしておるのだから、せめて自分の一番好きなものぐらい断ってからと思うて、まあ潔うここで、神様に打ち向かうて行くのだけれども、ちょっと心の隙には、それを失敗する。失敗させるものがある。心の中に。それを、まず取り除けということだと私は思うた。言うようにその、公のことのほうの道を取れとか、そして、ならこれからの、お仕事を何どういうふうになさるか分からんけれども、元気な心一心にすがっていけ、必ず道は開けるとこう。その元気な心で一心に向かうと言うことは、どういうことかというと、( ? )が元気ではなくて、自分が一番好きなものでも断ってからでも、おすがりをするという心を一心と言うのじゃ、というふうに今、この井上さんに、お言付けしたんですね、だからその事をどうぞもう一遍、お帰りになったらお話なっていただきたいと思うんです。そんなことで、ま、その( ? )頂いとったからだろうかと思って、ご神前に座った途端にまた公という字を頂くんですね。はぁ、また公という字を頂きよるなぁと思ったら、横の方へ、こう、木の字を付けてください。木偏の木。すと、こうどげんなるですか。松の字になるでしょう。ははぁ、桂松平先生のご信心。私共がいわゆる、まぁあこがれの的である、私共の信心の、あー、その桂先生のご信心の、その願いを私共の願いとして、こういう信心を進めていきたいという、今はその進めていきたいという信心とはどういう信心かと。というたら、公のことに心を使う信心だと、これが松の信心だというふうに私は頂いたんですね。ですから、私共がです、今日の例えば十三日会なら十三日会というような、十三日というお日柄は、神様の願いが叶う日ということは、いわば、桂松平先生の願いが成就するということのための信心があるということです。んなら桂先生はどのような信心を願いとされたか。桂松平、自分一人のことなどということは問題なさらなかった。いわば世界の難儀な氏子が取り次ぎ助けられる、このありがたいみ教えを世界万国に広げん、というような潔いお心であった。そのためにはです、前には進んでも、後ろには退かんという不退転のお心であった。そのためにはです、桂松平のどのような修行でも厭わんというほどのご信心をなさった、というようにどのような修行でも厭わんという心で公のことが祈れれるような信心にお互いが育っていくことが、神様の願いが成就していくことだと私は思うんです。それにもかかわらず、自分の小さいことだけに終始して、それがおかげになった、ならなかったのと言うて一喜一憂しておる信心から、ね、どうでも一つ飛躍しなければならん。はぁそんなら今夜からいっちょ大きなことばっかり願わなと言うただけじゃいかんとです。実感が伴わなかったら。ね、心から祈らなければおられない、心から祈らなければおられない。例えば椛目の現在のご造営というようなことでも、今日委員長から皆さんに発表があっておりましたけれど、今度とうとう( ? )たち。とうとう二千五百万になった。( ? )してきた段々段々。例えて言うならば、あの―、ご造営の屋根が(からあけ?)いっぱいになっておったけど、これどうでも銅板に、銅板葺きにしたいといったようなことが、あーその大きな額で百何ぼいると。それで丁度、五千五百万円という数字になった。ところが皆さんがお供えをして頂きたいという願いを持っておられるあの数字が、どれだけ、三十万、それがお供えしてしもうて三十万ですか。ね、現在は約二千万円ばっかりも支払っておる。それに皆さんがお供えしたいという気持ちに、かえって出しておるのがあと千万円残っておる。してみると、あとまー二千五百万円の不足ということになるのですから、それだけの信心がです、もう一段となされなければなりませんというようなことを先生が言うておりましたようにです。ね、私共が、例えばご造営ならご造営のことのために、今日例えば中村さんが立ってお話なさっておられたように、本当に椛目が一丸となり怒涛になって、たばこの好きな人はたばこを、お酒を好きな人はお酒を、断食をしたり水行をしたり、( ? )ありませんといったような様々な修行をなさりながら、ご造営へとご造営へと心を使こうておいであるということはです、もっともっと大きなものに本当のものになっていかなければならんということを、あの、中村のおばあちゃん、立ってそんなことを話しておられました。そのことのために一修行させて頂こうと。私のためじゃない、私一家のためではない。例えば、ご造営ならご造営の成就のために、私共が一肌脱がせて頂こう、本気で修行させて頂こうというところに、私は神様の働きが頂けれる、その働きがご造営の御用にでも立たせて頂くということ。んなら大きなことばっかり願やー神様の心に叶うとならば、今日からいっちょ大きなことば願おうというただけではです、実感がないものは神様は受けてくださらん。ね、大きなことを願うからには大きな御用のでけるようなおかげであり、祈りでなからなければならない。同時に赤の他人の誰であることを祈るでもです、ただお願いしますなら誰でも願えるけれども、例えば、ほんなら今日の中にも、お初穂の中にありましたように、これ誰々さん、これは誰々さん、と信心のない方達の名前でお初穂してあるなら、おそらく竹内先生の、いわば懐からあのお初穂出ておるもんだろうと、こう思うのです。ね、それはそうしなければおられないというような心が育っていくためにも、私共の心の中に巣くうておるところの、玉子の仇というようなものがある。玉子頂いて元気づけようと。御理解頂いて元気付いて今日こそはと思う。御理解というのは玉子のようなもん、いうならば。はぁ今日はこの御理解でいっちょおかげ頂こうと思いよるけれども、それにもまして今度は強い仇が現れて来る。それを崩すような仇があらわれてくる。それはどこにあるかというと、よそにあるのじゃない、自分の心の中にあるのだと。いわゆる力を頂かせてもらおうと、それに( ? )して、ところのおかげを頂くために、いよいよ日々の改まりということに本気でお互い信心をさして頂かなければならんというふうに思うですね。どうぞ、せめて私共の公な心に、公な事柄に、自分の心を添える、木を添える。と、これは松の字になる。人によってささやかながらでもです、桂松平先生の信心に合流し、その後から着いて行っておるということになる。桂先生のご信心を頂いていっておるということになる。ね、そういう私の信心ではなくて、親先生の信心、親先生の信心のもいっちょ向こうにあるところの桂松平先生の信心。それそのまま教祖の神様のご信心ということにもなるでしょう。教祖の神様のご信心をやはり身に付けていかなければ本当のことではないと私は思うですね、どうぞ。